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ギフト株式会社

JOURNAL裏話や本音のところ

100年先も、日本の中心で愛される神社へ。

「当時25歳。やりたいことがあった。いつか宮司を継ぐことはわかっていたけれど、やっぱり急には受け入れられない。一生続けていくことになる仕事。悩んだけれど、家族や自分の生活もある。選択肢はなかった。」

日本のトレンドの最先端を生みつづけてきた渋谷と原宿。そのちょうど真ん中あたりに、400年以上つづく小さな神社がある。その存在は、意外と知られておらず、『こんなところに神社があったのか』と驚く人も多い。穏田神社。宮司の船田睦子さんは29歳の女性(2022年時点)。先代の宮司である父を病で亡くし、選択の余地なく後を継ぐことが決まったのが、彼女がまだ25歳の頃だった。幼い頃、家族で旅行をしたフランスが好きで、念願叶ってヨーロッパにつながりのあるアパレル企業に就職した。仕事にも慣れ、順調に行きはじめた矢先の話だった。

まずは宮司代務者として当時の仕事と掛け持ちをしながら神社の業務に携わった。そして宮司に必要な位を取得するため國學院大學に入学。2020年の4月に宮司に就任した。当時の葛藤は凄まじかったはずだ。楽しんで挑戦している友人を羨ましく思ったり、やり場のないその感情とどう向き合ったのか?この問いに対し、船田さんは穏やかに答える。

「なんとか自分の人生を肯定するために、頑張ろうとしていたのが最初です。自分が決めたことだし、こんな自分が可哀想と思うのは自分自身の人生を投げ捨てていると思いました。まだわかりませんが、自分にしかできないことをがむしゃらにやることで、その先に何か見えるんじゃないかと思って、今もやっています。」

このような運命を受け入れながらも、強く、しなやかに生きている船田さんとギフトが出会ったのは2021年2月。このまま500年、600年とつづいていく神社にするにはどうしたらいいか。ブランディングの考え方が必要なのではないかとお声がけいただいたことがスタートだった。

神社についても、仕事についても習うことができずに始まった宮司としての仕事。助けてくれる人はいたけれど、自分と同じ熱量で考えてくれる人はいなかった。自分自身の迷いをなくすためにも、穏田神社の根本にある大切にしたいこと、ブレない軸をつくりたかったという。とはいえ、日々業務に追われ、ゆっくりと考える時間もない。理想とする他の神社、うまくやっている神社のようになるには、どうしたらいいのか。一人では限界があるからプロにお願いしてみようと決意した。多くのブランディング会社に問い合わせをした。『神社のブランディング』に興味を持ってくれる会社は多かった。その中でギフトと一緒にやることを決めてくれた理由を聞いた。

「ギフトは神社のブランディングという仕事ではなく、船田という人を見てくれていると感じました。費用もない中で、やりましょうと言ってくれた。同じ目線で一緒に成長させてくれるような姿勢でいてくれたこと、できる中でやっていこうと寄り添おうとしてくれたことが決め手でした。」

ギフトのオフィスは神奈川県逗子市にある。船田さんをお招きし日常とは違う空間で、まずは1日かけてじっくりと穏田神社と向き合う時間をつくることから始まった。穏田神社のあるべき姿、船田さんの純粋な想いを言葉に変換し、神社の理念を言語化しカタチに落とした。神社とはまずどうあるべきなのか。幼少期から当たり前に神社に触れている人もいれば、特に思い入れもなく横目で通り過ぎる人もいるだろう。船田さんは穏田神社を「みなさんの生活の一部に溶け込む神社にしたい。」と言った。

原宿、渋谷。変わりゆく場所の中心にある神社だからこそ、変わらないものを大切にできる場所であり続けたい。そんな穏田神社ならではの考え方も見えてきた。祀られているのは、美と縁結びの神様。その解釈も「外見だけでなく、磨かれた人間の内面から生まれる美しさ」「男女だけではなく、子どもからお年寄りまで、世代を越えた人と人のご縁」といった、独自の考え方が固まっていった。

かけられるお金も限られている中で、流行やブームを生み出すようなプロモーションはできない。そこで、まずは小さくとも身近なところから、地域の人たちに向けた交流や文化・教養の伝承を目的としたイベントを企画。夏の思い出に、『線香花火大会』を行った。東西で特徴の違う日本製の線香花火を体験しながら、伝統工芸に触れてもらう。そして、夏の思い出として撮影した写真をプレゼントする。コロナ期間中だったので、お祭りにはできなかったけれど、できる範囲で考えた取り組みは、告知とともにすぐに応募が埋まった。

「この線香花火大会は小さな規模のものでしたが、参加者の方々に大切な人と心温まる思い出ができたと言ってもらえました。神社がそういう場所になれたことがよかった。言葉に掲げた理念を実際に形にできた。お金には変えられない、大切な思い出の一役を担えたことが嬉しかったです。」

ほんのひとときの時間、鮮やかな浴衣を着て境内の前で楽しむ手持ち花火。穏田神社らしい決して派手ではない、参加者の方のじんわりと笑顔が溢れる瞬間を幾度と見ることのできた時間だった。神社と地域との繋がり。地元の人から愛される神社であることは、船田さんも心から願っていることだった。

そして、次に着手をしたのはPR活動。予算をなるべくかけずに、かつ社会との接続点をつくるためには、宮司の船田さんという存在をうまくコンテンツ化していくことだった。プレスリリースの作成から、媒体へのアプローチ。テレビ・ラジオ・新聞・WEBサイト。正直なところ、「渋谷と原宿の真ん中で400年やっている神社の、若き女性宮司」というコンテンツには魅力があった。だからこそ、意図しない取り上げられ方はされたくなかった。細心の注意をはらいながら、アプローチする媒体も絞り込んで進めていった。

そして、選定した媒体へ資料を送ったところ、さっそく渋谷のラジオ局で取り上げてもらえることになった。すると、地域のWEBマガジンからも取材依頼が来るように。それを皮切りに、毎日新聞、朝日新聞、TVキー局の情報番組とどんどん火がついた。始めは固くなって取材に答えていた船田さんも、だんだん楽しみながら取り組んでくれるようになっていった。

取材ラッシュが一段落する頃、穏田神社のSNSを始めた時のことを思い出し、船田さんは語った。「Instagramをやるとき、神社としてどうなの?と言われるかもしれないと思っていました。でも自分は経験が浅いからこそ、どう思われてもいいやと開き直ったんです。神職としての役割以前に、自分の想いを伝えたかった。渋谷、原宿あたりに住んでいる方でも、穏田神社を知らない人はまだいっぱいいます。大切なことは、まずは穏田神社を知ってもらうことなんです。」

もうじき一緒に仕事を始めて1年が過ぎようとしている。決して派手ではないけれど、当初思い描いていた以上の成果も出始めた。私たちギフトは、一度お付き合いをはじめたお客様とは長く続いていくことが多い。それこそ、3年や4年ではなく、10年以上のつながりとなるケースも少なくない。それでも、400年の穏田神社が500年を迎える頃には、世代も変わり、人も変わっている。そう考えた上で、今やるべきことは何なのか。100年後の正解はわからない。けれど、一つ言えることは100年後も変わらないもの、変えてはいけないものを次の世代に渡せる形で残していくことが必要なのだと思っている。ブランディングとは、成長しながら永続していくためにある。船田さんとの旅を、楽しみながら、これからもともに歩みを進めていきたい。

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